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ASDだけだと思っていた私に、大人になって判明したADHD ―幼少期を振り返る

子どもの頃から「変わっている子」と言われ続けた私。大人になり、30歳を過ぎてからASD(自閉スペクトラム症)と診断されました。そのときはかなり納得感があったものの、どこかあと一押しすっきりしないまま10余年を過ごし… 45歳を目前にしてなんとADHD(注意欠如・多動症)の併存が発覚、診断を受けることになりました。

「ASDとADHDの併存」という観点を得たことで、幼少期からの「説明できなかった私」の姿が、初めてはっきりと見えてきたのです。ASDとADHDを併せ持つ大人の発達障害の私が、幼少期をどのように生きたか振り返ります。

 

ASDだけだと思っていた私が知った「もう一つの診断」

32歳でASDの診断を受け、45歳を目前にADHDが発覚しました。

ASDの診断

私は30歳のときにASDを自覚、32歳のときに診断を受けました。「努力不足だと自分を責めていたことは、できなくて当然のことだったんだ」と心から安堵し、力が抜けたものです。
同時に、「私はなんて無為な努力と苦しみを背負い込み、いわれのない誤解や叱責、嘲笑を受けてきたのだろう」と、一気に遡って傷つくような気持ちにもなりました。「診断が遅れていた間、社会適応も遅れ、中年になってしまった」と感じ、「決して取り戻せない若い時代をいたずらに過ごしてしまった」と、深い喪失感に襲われました。

ADHDの診断

その後、医療や福祉につながりました。トラウマ治療にも取り組んで10余年、かなり元気になってきたものの、まだイマイチ足踏みしていた45歳目前、ADHDが発覚することになります。

きっかけは、以前から交流のあった発達支援の専門家との会話です。「宇樹さんは多動はないようだけど、注意の問題はある気がする」という話に。

「もしかして私には不注意優勢型ADHDの傾向があるっていうこと?」と考えながら帰宅し、調べてみたところ、大人の不注意優勢型ADHDの例として、まるで私みたいな人の話がたくさん出てくるのです。

専門医を受診すれば診断が下りるに違いないと思い、すぐに受診して小学校当時の通知表も見せて説明したところ、「間違いなくADHDの傾向がある」と、不注意優勢型ADHDの診断が下りました。

再びの深い喪失感

ついに最後のパズルのピースがはまった感じで、とてもすっきりしましたが、やはりこのときも「どうして今まで発覚しなかったのか、あまりにも遅い、失ったものが多すぎる」という気持ちになり、しばらく調子を崩してしまいました。

 

幼少期に現れていたASD(自閉スペクトラム症)の要素

幼い頃に現れていた発達障害の傾向について、まずはASDの側面からお話します。私は物心ついたときから、いつも「変わった子」という扱いを受けていました。

飛び抜けた好成績、旺盛な知識欲

学問的なことや雑学的なことに熱烈な興味を持ち、大量の本を乱読。所属の学年に合わせた小学校の授業は退屈なので、授業中は複雑で抽象的なことを考えて楽しんだり、教科書の裏に難しい本を隠して読んだりしていました。

学習雑誌も自分の所属学年のものは易しすぎるので、3学年上の兄に届く学習雑誌を奪い取って、血眼になって読む。勉強しなくても座学の成績はいつもトップ。小学校中学年の頃には大人顔負けの知識や理屈っぽさを身に着け、担任に議論を吹っかけたりもするので「博士(はかせ)」とか「研究者タイプ」と言われました。

でも、コミュニケーションと運動がダメ

でも、ことコミュニケーションとか、集団の中で周囲に合わせるとなるとてんでダメ。

「義子ちゃんばかり成績が良くてずるい」と言われると腹を立てて「は? ずるいって何? こんなの授業聞いてればわかるじゃん。どうしてわかんないの?」と言い放つ。授業でどんどん手を挙げ、先回りして答えを言ってしまう。授業参観のときに先生がほかの子に華を持たせようと、手を挙げる私を当てずにほかの子に当てていると、私は「私のほうが答えを知ってるのに、手を挙げてるのに、なんで答えたがらないし間違えるほかの子を当てるの?」と言って泣き出してしまう。

こうしたことが積み重なり、「頭がいいのを鼻にかけていて感じが悪い」「お高くとまっている」などと、クラスメートからも、一部の先生からもとても嫌われました。

身体を動かすことも苦手で、体育だけはいつも三段階評価でC、良くてもB。いくら頑張ってもボールがとれない。皆の動きにワンテンポ遅れる。座学のときも、体幹がぐにゃぐにゃで、まっすぐ座っていられず、しょっちゅう注意を受ける。

今で言うDCD(協調運動障害)でしたが、「できるはずなのに悪意で手を抜いている」と誤解され、担任から殴られたり、おかしな動きを真似されて笑われたり。クラス対抗の長縄跳びにいつまでも入れず、「お前のせいで負けた」と激しく責められたり。

独特の世界観

学問的なことには並々ならぬ興味があるのに、ほかの女子が興味を持つようなことに興味が持てませんでした。それで「え、それの何が面白いの?」とか真顔で突っ込んで水を差し、皆の不興を買ってしまう。

クラスの中でのグループの力関係とか、自分の立ち位置といったことにも気づけない。相手に対する自分の立ち位置やその場の状況を踏まえて、何をどこまで、どういう言い方でなら言っていいのかを考えてものを言う、ということができない。

私にとって、大人も含めたすべての人は平等。「誰に対しても事実はすべて言っていいし、相手が知識的・倫理的に間違っていたら指摘してしかるべきだ」と思っていました。

極端な疲れやすさ

また、感覚過敏のせいもあったと思いますが、極端に疲れやすく、午後にはもうぐったりしてしまう。すぐにここが痛いあそこが痛いと言い出す。これも「甘えている、大袈裟に言っている」と誤解されるのでした。

いじめ、虐待。二次障害へ

こういったことがいろいろと積み重なって、私は常にいじめや虐待を受けることとなりました。家庭での生きづらさも含め、こうした傷の累積がのちに複雑性PTSDにつながっていきます。

 

 

ADHD(注意欠如・多動症)の傾向が判明して見えてきた、子ども時代の困難

以上のように、私は32歳のときにASDの診断を受けて以降は、自分の生きづらさのベースにあるのはASDだけだと思って生きてきました。しかし、45歳を目前にしてADHD併存の可能性に気づき、その視点で自分を振り返ってみるに、確かに私にはADHDの傾向もあったのです。

記憶をたどってみるだけでも「確かにこれはADHDの傾向だ」と思えるものはたくさんあります。それだけでなく、改めて見直してみた小学校時代の通知表に、やはりADHDのものと思われる具体的なエピソードがいくつも書かれていて、これには驚きました。

頻発する忘れ物やケアレスミス

小学校の頃、給食当番で着たスモックを家に持ち帰って洗い、また持ってこなければいけなかったのですが、これをしょっちゅう持って帰り忘れる・持っていき忘れることがありました。明日持っていかなければいけないという夜になって気づいて、父が車で学校に取りに行ってくれたことも。

算数にすごく苦手意識があったのですが、よく思い出してみると、字が雑すぎて計算式をきれいに書けないので自分で桁を読み間違えたり、問題文から式を書き写すときにうっかり数字を書き間違えたり(例えば8を6と書いてしまうとか)、というケアレスミスが多かったことも大きな要因のひとつだったと感じます。

計算でのケアレスミスの多さは、40歳ごろになって小中学校レベルの算数・数学をやりなおしてみたときに初めて自覚したのですが、今回見直した小学校の通知表でしっかり何度も指摘されていて、笑ってしまいました。

ASDのせいだけではない、衝動的な言動

ASDのある人もADHDのある人もその場から浮いた言動をしてしまうことがありますが、ASDの浮いた言動は主に「空気が読めない」「ルールがわからない」ことから、ADHDの場合は「衝動性に突き動かされる」ことから起こるようです。
ここから考えると、私には幼い頃、ADHD的な言動もよくあったようです。ともかく、何か言いたいことを思いつくと、そのときは自分が発言していいタイミングではないのに、衝動的にパッと言ってしまう。そして喋りだすと、いくら制止しても聞かない。これも通知表にかかれていました。

注意・集中のムラ

通知表には、ぼうっとしていて反応が鈍い(注意散漫)と思ったら、いくら止めようとしてもやめないほど集中してしまい、切り替えができない(過集中)など、集中力や注意力にムラがあることを思わせるエピソードもありました。

ADHDには、外から入ってきた刺激に対して適切な注意・集中を維持して作業したり判断したりすることの苦手さがあり、結果として注意散漫や過集中などが起こると言われています。上記のエピソードにはこういった、いかにもADHDらしい要素が描かれていたと思います。

過集中はASDにも起こりますが、ASDの過集中はどちらかというと自分の内面世界への集中やこだわりの強さが原因なよう。私の過集中はASDとADHD両方の要素が絡み合っていたのだと今は理解しています。

目立たないが確かにあった多動

授業中にソワソワとあちこち見て話を聞いていないように見えたり、手遊びをする、くねくねと身体を動かして落ち着かない、ということもあったようです。

はっきりした多動のあるADHDの子どもは、授業中に座っていられずに立ち上がったり走り回ったりしますが、私はそこまではいきませんでした。でも、授業が退屈でしかたなくて、本当は教室なんか飛び出してしまいたい衝動があったのははっきり覚えています。そんな中、「それはまずいだろう」と自制し、なんとか紛らわそうとして起きていたのが上記の小さな多動だったのではと、今は思います。

「話を聞いていないように見える」は、無表情で目が合いにくかったり、過集中で周囲の声が認識できなくなったりするASDにもあると思います。退屈しのぎの繰り返しの自己刺激的行動は、ASDの常同行動にもみられるよう。これに対しADHDの場合は、「注意が維持できない、衝動に突き動かされる」が中心的な原理なのだと感じています。

 

 

困難を抱えたまま青年期へ

以上が私の、未発覚のASDとADHDが併存していた幼少期でした。このまま私は大人になっていき、生きづらさを深めていくことになりますが、それについては他の記事でお話することにします。

 

執筆者プロフィール

宇樹義子(そらき よしこ)

1980年生まれ。早稲田大学卒。ASD、複雑性PTSD。
2015年に発達障害当事者としての活動を始める。LITALICO発達ナビなどで連載開始。 2024年、日本語教師としても活動を開始。複数メディアで活動を続けながら、次の発信を模索中。
現在、発達支援×日本語支援の分野に興味津々。

【著書】
#発達系女子 の明るい人生計画
―ひとりぼっちの発達障害女性、いきなり結婚してみました

80年生まれ、佐藤愛 ―女の人生、ある発達障害者の場合

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